東日本大震災から10年目の節目に思う平和な日常のありがたさ

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バンコクのタニヤ通り

バンコクの頑張れNIPPONキャンペーン(2011年5月)

2021年3月11日は、東日本大震災から10年目の節目の日だった。

3月12日付の東洋経済が「テレビが震災特番で伝えた3.11から10年の重み」と書いているように、多くのメディアでは、11日の番組で、当時の震災の模様や、その後の10年間の足跡といった内容が放映されていたが、当時、現職のサラリーマンだった私も仕事中に震災に巻き込まれ、「東日本巨大地震の帰宅難民から一夜」を過ごした一人となった。

それから10年、震災を経験して人生が変わったという方も多いと思うが、災害時要援護者(避難困難者)となってしまった私は、別の目で天災に遭ったときのことを思い描いている。

T字つえの無償給付に思う~歩行が困難だと災害に対するリスクが半端じゃない

自宅の庭

身体障害者手帳を持つと、障害の部位や等級に応じて、横浜市から日常生活用具の給付が受けられることがある。

私の場合は、「負傷事故から1年~身体障害者手帳を取得しました」で書いたように、年収制限があるものの、T字つえが3年ごとに給付されることになっている。
昨年の退院直後は両杖歩行だったので、今では1本はスペアになっているのだが、日常使っている杖は、摩耗が激しいのか、柄の部分が割れてきたので、今回給付申請することにした。

障害者(児)日常生活用具給付決定通知書

それはありがたいのだが、東日本大震災から10年目の節目にあたって、テレビなどで、津波から逃れるといった避難訓練風景を見るたびに思うのが、仮に、私が天災に遭ってどこかに避難をしなければならなくなったときは、たぶん THE END になるときだなと感じた。

従って、今の自宅を離れて、例えば、シーサイドに住むという選択肢は取れない。
歩行が不自由というのは、天災に際してのリスクが、一般の高齢者以上にあるからだ。

平和な日常があるからこそ~フィットネスクラブで水中ウォーキング

ティップネス二俣川

11日はゴールデンウイーク並みのポカポカ陽気だったこともあって、ほぼ半月ぶりに「ティップネス」へ行ってきた。
私の行っているところは毎週水曜日が休みなので、その翌日となった11日は、天気も良かったこともあって、いつもに比べてかなり混んでいた。

でも、こんなことができるのも平和な日常があるからこそ、今週は節目番組のオンパレードで、少々感傷的になってしまった。

2021年3月11日 ティップネス二俣川

ところで、厚生労働省のウェブサイトに「新型コロナワクチン接種についてのお知らせ」というのがあり、「高齢者以外で基礎疾患を有する方」の中には「基準(BMI 30以上)を満たす肥満の方」がある。

これは自己申告なのか、私のように恒常的に通院している人や、かかりつけ医がいる人は、ドクターの診断になるのか、今度聞いてみようと思う。

もっとも、副反応への懸念からワクチン接種を希望しない人には関係ないことだが、一般の人が接種対象になったら、かつての「インフルエンザでも出勤しろ」と言っていたブラック企業(上司)が、新型コロナワクチンの接種を社員(部下)に強制するという図式が浮かぶのは私だけだろうか。

10年前のことを思い描きながら~やきとり HATAKE

やきとり HATAKE

私が負傷事故から立ち直って以降、高校時代の同窓生がやっている「やきとり HATAKE(所在地:神奈川県横浜市保土ケ谷区川島町1571)」に来るのも5回目になる。
ここは、夕方の時間帯から地元の常連客で賑わっているが、この日はいつにも増して混んでいた。

おおお~というレベルだったのだが、カウンター席は空いているので、そこに座ってビールを頼む。
コロナ禍の渦中ではあるが、10年前の震災直後に比べれば、はるかに平和な日常が目の前にあることに安堵する。

やきとり HATAKE

ただ、首都圏の1都3県の緊急事態宣言が2021年3月21日まで再延長され、さらに、「緊急事態宣言解除後も午後9時の時短要請 1都3県が方針決定」とのことなので、サラリーマンの仕事帰りの1杯は当分お預けになりそうだ。

従って、4月からは、私も週1回の平日休みの日と土曜日を除けば、おそらくそうなるだろう。
「やきとり HATAKE」が駅のそばの店なら、仕事帰りにちょっと寄ることもできるが、さすがに相鉄線の和田町駅からバス(浜16系統)に揺られてではキツイ。

せっかく常連さんに顔を覚えてもらったようだが、今までより行く頻度は減ると思う。

やきとり HATAKE

去る9日に、私は「社会復帰へ~奇跡か僥倖か~コロナ禍でも再就職が決まった中年男の物語」というコラムを掲載したが、今、私が読んでいる楠木新氏の著書「人事のプロが教える 働かないオジサンになる人、ならない人」に書かれていることは、日本の中高年男性の転職をより困難にしている要因だと思う。

昭和時代の組織運営の負の部分が、平成時代に冷酷残忍な形で表面化し、令和時代に引き継がれている。
これが解消されるのは、コロナ禍が収束するより困難で、下手すれば、福島第一原子力発電所の廃炉作業よりも時間がかかるのではないかと思っている。

最後に

東日本大震災直後の宮城県牡鹿郡女川町の風景

東日本大震災直後の宮城県牡鹿郡女川町の風景

東日本大震災の発生当時は、震災で亡くなった被災者も多く、彼らのご冥福をあらためて祈りたいが、女川の想像を絶する光景の中で、そこにいた友人は無事が確認され、今では不定期に会合ができるようになり、ホントに良かったと思う。(2011年6月27日-がんばっぺ女川

ちなみに、弊サイトのコラムも当時は時事系のものが多かったように記憶しているので、興味がある方は2011年3月のアーカイブから順に辿ってお読みいただければ幸いに思う。

コメント

  1. とんび より:

    最近、自宅介護していた母が亡くなりました。手帳を持っていました。恩恵としては確定申告の際の控除でした。ほかは、交通費はすでに旅行などできない体で使ってないし、いくつかのサービスは介護保険のものと同等だったり。医療費は後期高齢者保険の場合と同じだったり、逆に基準が高くて使えないものも多く、利用はしてませんでした。

    災害の際に杖で歩くのに危険を感じられるお気持ちよくわかります。母は杖も無理で歩行器でした。自宅がマンションの上階で、水害には安心なのですが、火災の場合は、自分がいたら背負って下りるつもりしていました。それでもきちんと背負えるか心配だったうえ、自分がいないときは逃げられないと思っていました。自宅での介護は7年続きましたが、ずっと心配し通しでした。

    • とんびさん、コメントありがとうございます。
      そうですね。
      7年の介護はさぞかし大変だったと思います。
      私も退院直後は介護が必要かという状態でした。
      今でも災害に遭った時は相当にヤバいですね。

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