東日本巨大地震の帰宅難民から一夜

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東日本大震災直後の宮城県牡鹿郡女川町の風景

昨日の3時前、職場で仕事をしていると突然大きな揺れがきた。
普段の感じとは違う断続的な地震に職場にいた全員が机の下に隠れる。

何しろ私たちのいる職場の建物は築何十年という現在の耐震基準では?がつく代物、そんなことを知らない20代の人たちはテレビやネットの速報で伝えられる震度と自分たちの体感の違いを口々に叫ぶ。

階下のフロアでは来客を全員外へ避難させ、スタッフも避難し始めた。
そのうち三陸沖で大きな地震があって、それが関東一円にも及んでいるとの情報が入る。

どうやら電車も全部止まったらしいということで、職場で一夜を明かそうかと思った。
夕方6時前になって、幸か不幸か私への職場待機命令は下されなかったため、上司から「気をつけて帰れよ」との声がかかる。

ところが、よくよく考えてみれば帰ると言ってもどうやって?というのが現実だった。
電車が止まっているため、お客が殺到する前に最寄りの店で夕食を取り、まるで初詣のような雑踏を歩いて渋谷までたどり着いてみたものの、近隣のホテルは予想通り満室だった。

また、かつて夜明かしをしたインターネットカフェも既に満室、都内で帰宅できない、いわゆる「帰宅難民」をすべて受け入れられるほどのキャパシティはないから当たり前だった。

かといって夜の9時過ぎから翌朝まで居酒屋やファミリーレストランなどで粘る気力はなかった。

携帯電話は不通(FacebookmixiのようなSNSへの接続は大丈夫だった)、公衆電話も長蛇の列で家族への連絡もままならなかった。

そのうち友人のジョニーさんから携帯に電話が入り(なぜ、彼の電話が着信できたのかは不明だが)、六本木のワールドインベスターズトラベルカフェで友人たちが集まっていると言ってきた。

皆が渋谷や新宿といったターミナル駅を目指している中、わざわざ六本木を目指すというのも悪くないと思った。
そこでも渋谷や新宿のように24時間営業の店があるのを知っていたし、カフェ自体も金曜日は翌7時までの営業だからだ。

ところが、普段であればバスで十数分の六本木、この日は江戸時代の旅人のように歩かないといけなかったのだ。
途中、東京メトロの表参道駅や銀行の24時間ATMのフロアには新聞紙を敷いた人たちが溢れていて、いっそのこと私も駅で仕入れたフリーペーパーを敷いてそこで夜明かししようかと思った。

実際にやってみて8時間を耐え忍ぶのは辛かろうとは思ったが、東北地方の被災者のことを思えば、贅沢なことは言っていられなかった。

30分ほど経っただろうか、フト思い立って私は六本木を再び目指すことにした。
途中でキャスターバッグを引きずる外国人が通りすがりの人に六本木への道を聞いているのを耳にしたからだ。

彼に付いていけばカフェに辿り着ける、そう思った私は最後の気力を振り絞って歩くことにした。

途中の公衆電話から自宅へ電話をかけ、自宅も家族も無事であったことを確認した私はホッと胸をなでおろす。
数年前に地震対策として家具転倒防止器具を付けたことが効を奏し、本や食器棚の皿すら落ちてきてなかったと言っていた。

そして、夜の10時過ぎにワールドインベスターズトラベルカフェに着いてみると、ドアが閉まっていていてスタッフが「今日は閉店なんですよ」と言ってきた。
あれ、ここは金曜日は翌朝の7時までが営業時間だったはず、と思っていたが、どうやら震災の影響のようだ。

店内にいた友人の1人と少し話をしてから、再度帰宅難民と化した私は六本木ヒルズの近くにある天然温泉薬石浴『嵐の湯』を目指して歩き始めた。
ところが、ここも通常の営業時間ではなく、早々に店じまいをしていたのだった。

仕方なしに、ぶらぶらと六本木交差点の方へ戻りかけたとき、一軒のエジプト料理店「ネフェルティティ東京」の灯りが見えた。
「何時までやってるの?」と聞く私に「夜の0時過ぎかな」というアバウトなエジプト人、ビールで喉を潤し、会計を済ますと、彼は帰り際に「どこか泊まるなら六本木プラザホテルが穴場だよ。渋谷は皆が行くからダメだね。」と教えてくれた。

そして、東京メトロの六本木駅1C出口から2出口へ行きかけたときに私が見たものはフカフカのソファとテーブルだった。
渋谷駅や表参道駅の構内で新聞紙を敷いて寝るのに比べれば、まるで飛行機のビジネスクラスの座席のように快適に思えた。

もちろん、どこかのカフェやレストランのものでなく、公共空間にポツンと置かれ、1組のカップルがそこにいただけだった。
いくらエジプト人が穴場ホテルだと教えてくれたところでもネット予約が発達している日本において空室があるとは思えなかった。
私もそのフカフカのソファに身を沈め、図書館で借りた本を読みながら夜明かしをしようと決意した。

ところが、日付が変わる前、私のそばを風が通り抜けるような感覚を覚えた。
それは何か不思議なお告げのようなものだった。
その不思議な風に乗って東京メトロの日比谷線の改札口へ行くと、駅員が日比谷線の中目黒方面行きも、それに連なる東急東横線も動き始めていると言う。

最終電車はいつなのかわからないが、夢遊病者のように電車に乗った私はいつの間にか横浜へたどり着いていた。
駅の構内は東京メトロの大江戸線が動き出した頃と比べれば雲泥の差で、車内は座って寝ることすらできたほどだった。

JRが止まっていたため、横浜駅構内には数人の夜明かし組が新聞紙を敷いていたが、幸いに私はそうすることなく帰宅できた。
自宅に着いたときは、夜の2時過ぎ、私にとって長かった1日が終わりを告げた。

夜が明け、心の落ち着きを取り戻したとき、初めての欧州旅行で一緒に行った友人たち、仙台市青葉区に住む浩一と、宮城県女川町に住む木村の安否が気になった。
ここ数年会っていないが、果たして無事でいるのだろうか。

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