英語民間試験を巡る議論に思う~日本人が英語を話せない根本的な理由

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日本地図とビジネスマン

英語民間試験の実施を巡って、萩生田光一文部科学相の「身の丈」発言が世論の沸騰を招き、ついに実施が延期になった。

文部科学省の大学入試英語ポータルサイトによれば、この試験の導入の意義は、日本人が苦手とする英語のコミュニケーション力を向上させるためだと書かれている。
いろいろなメディアで「なぜ日本人は6年も英語を学んでも話せないのか」ということが語られるが、実際のところ、何が根本的な原因なのだろうか。

海外旅行で感じる日本人の英語能力の低さ

成田国際空港

私自身、香港や米国の金融機関に口座を持っているものの、英語が堪能というレベルには程遠い。
海外旅行で困らない程度の会話力はあるが、そこに至るまでには結構苦労したものだ。

そうは言っても、私も大学を卒業しているから、中学校のときから合計すると、10年間も英語を学んできたはずなのに、大学の卒業前に行った欧州旅行のときは、メンバー全員が英語のエの字も話せなかったことを覚えている。

日本人の多くはそういう現実に疑問も抱くことなく暮らしているが、日本から一歩外へ出て、現地の旅行会社やホテル、レストランで、スタッフと少し話しただけで大いなる疑問を感じることになる。

なぜなら、彼らは英語が母国語でないにもかかわらず、英語や日本語でさえも2~3年ほどで話せるようになったと言うからだ。
ほとんどの日本人は、この事実を知っても、彼らの努力に感心するだけで、彼らにハングリー精神があり、日本人は英語が話せなくても困らないからだと思っている。

そういった意味では、2016年11月12日付のRareJob English Labの記事「【アジアの英語力】韓国、中国、ASEAN諸国はこうやって英語を伸ばしている!」にあるように、

英語教育が発展していく国の特徴とは?

  • 英語を使用する実践の場がある。
  • 英語を身につけることによるインセンティブがある。

とりわけアジア各国は、英語教育が発展していく国の条件を満たしていると言える。

ただ、20世紀後半の日本が輝いていた時代は、日本人にとって英語が話せることは願望であり、憧れであったのだが、今後はそうも言っていられないだろう。
実際に、海外旅行をするにしても、外国語が話せない人で、さらに、一歩外へ出る勇気も持ち合わせない人は、日本語情報を鵜の目鷹の目で探し、そこから外れることを恐れ、旅の楽しみの大半を失っている。

個人旅行者の中には、ポケトークがあればいい、グーグル先生がいれば大丈夫という人もいるが、最近ではその域まで達することなく、臆してしまう人も多いように思える。

また、アジア圏の現地旅行社のスタッフやガイドも、1990年代なら「私、日本語少し話します。ツアー行きませんか?」と話しかけてきたものだが、今や、日本人に対してさえ「おおお、英語が話せないのか」という態度が散見される。

それに、現地の日系旅行社で日帰りツアーを申し込んでも、ガイドが英語ということは多くなってきた。
高度な翻訳機ができたとはいえ、日本語だけに頼った海外旅行には限界があるのではないだろうか。

英語民間試験が実施されると、英語が話せる人が増えるのか

驚く外国人男性

2019年11月1日付のNHK News WEBは「英語民間試験 来年4月からの実施を見送りへ」という記事を配信している。

この中で「英語民間試験 導入の経緯」として書かれているのが

これは、1990年に共通1次試験から、センター試験に切り替わって以来の、大きな入試制度改革でした。
民間試験の導入は、日本人が苦手とする英語のコミュニケーション力を向上させるためでした。

そのためには、話す力と書く力の育成が欠かせませんが、今のセンター試験で測定しているのは、読む力と聞く力の2種類だけです。
そこで、文部科学省は、すでに話す力と書く力を測定する検定試験を行っていた民間事業者を活用することを決めました。

日本の英語教育は完全に失敗

2016年2月20日付のハフィントン•ポスト(The Huffington Post)の記事で「驚愕の日本の英語力調査結果」というのがある。

これは、筆者の鈴木勇貴氏が、2015年(平成27年)3月17日に開催された文部科学省の「第2回 英語力評価及び入学者選抜における英語の資格・検定試験の活用促進に関する連絡協議会」で配布された「平成26年度 英語力調査結果(高校3年生)の速報」を分析したもので、その中で彼はこう書いている。

高校3年生7万人を対象にした英語力調査で、英検2級程度の実力を持つ高3生は2%しかいない。

学校で学ぶことで、2%の人しか身につかない。結果が2%しか出ていない。こんな大失敗があるだろうか?

これは英語力のあるなしとか、そういう議論は超越している。日本の英語教育は、完全に大失敗という結果だ。

文部科学省の外国語教育を見ると、様々な施策があるように見えるが、これが全く功を奏していないというのが鈴木勇貴氏の指摘だ。

英語民間試験を巡って、萩生田光一文部科学相は国会で「身の丈」発言を謝罪したと報じられたが、野党やマスコミは、このような枝葉末節なところを追求するのでなく、日本のGDPに占める公教育支出比率はOECD諸国で最低であり、なおかつ、公教育だけで英語のコミュニケーション力を向上させることは絶望的なまでに不可能であることを政府に改善するように要求したらどうなのか。

英語民間試験の採点は、いずれ英語のできないアルバイトもやるのか

私は、2019年9月8日付のフォーブス(Forbes)の記事「『公平性』から考える、大学入試制度変更の問題点とは」の中で触れられていた、7月4日付のNHK News Webで報じられた「『共通テスト』採点にバイト学生 認める方針 疑問視の声も」を読んで卒倒しそうになった。

つまり、アルバイトが試験会場での見回りや事務補助者でなく、記述式試験の採点者として雇われる可能性があると書かれていたからだ。
記事では、国語と数学の記述式試験に関して触れられていたが、今のままいけば、政府と民間業者の経費節減のために、英語の採点もいずれアルバイトの手に委ねられるのは間違いない。

質の高い採点者をどのように採用するのだろうか。いい加減な採点をされたのでは、人生がかかる受験生は可哀そうだ。

笑ってはいけないのだが、笑うしかない。
今のご時世、あらゆる企業で技術的な不祥事が噴出しているのは、従業員を安く買い叩いた結果、質が劣化しているからだ。
それが教育の場で出ないなどと誰が言えるだろうか。

極論すれば、日本の英語教育は、英語が話せない教師が教え、英語がわからないアルバイトが大学入試の採点をするという冗談のような光景が見られることになる。
そんなシステムに人生を委ねることになる受験生はどんな気持ちがするのだろうか。

大学入試対策では英語が話せるようにはならない

現在の英語検定を受けている人たちは、自発的に英語を学ぼうとしている人だから士気が高い。
だから結果も出る。
当たり前の話だ。

ところが、大学入試のためにイヤイヤ英語をやる人は、例え、合格したとしても、数年もしないうちに、英語のことは忘却の彼方だ。
自主的に使おうと思わなければ英会話は上達しないし、下手すれば、日本に溢れかえる外国人観光客に道を聞かれても、臆して逃げてしまうだろう。

日本人が何年間英語を学んでも話せない理由

苦悩する女性

去る10月4日の名古屋の投資家オフで、海外口座開設がらみで「何で日本人は英語が話せないのか」という話題があったのだが、これについて私なりに考えてみた。

最近になって驚いたのが、私が職場で外国人顧客を応接したときに、2010年代になって配属された一流大学卒の新人が、何のわだかまりもなく、「英語は話せません。おそらく学校の英語の授業は、カルロスさん(実際には私の本名)がいた頃と、私たちが学んだものと、ほとんど変わらないと思います。」と言ったことだ。

私は卒倒しそうになった。
実際にインターネットで調べてみると、日本人が英語ができない理由というものを解説した書籍やブログ記事は数多い。

例えば、2016年12月27日付のGOODBYE JAPANの記事「日本人が英語できない4つの理由【義務教育のせいも大きい】」や、ヨス氏の記事「なぜ日本人は英語が話せない? カリスマ英会話教師と対談してきた」などである。

私は、今の学校では、学生たちに英語でコミュニケーションを取れるように、授業のカリキュラムを組んでいるとばかり思っていた。
しかしながら、現実はそうではないようだった。

学校の英会話学習教材が面白くない

私が2019年1月24日付のコラム「プレイバック1998年、私の英会話学習事始め」で書いたように、慶應義塾外国語学校(現在の慶應外語)という英会話スクールで、その基礎コースのテキストは、海外旅行で使うシーンがメインだった。

これは、当時の私にとって実用的だったし、学べば学ぶほど海外旅行の幅が広がっていったので、上達するスピードも早かった。

翻って、中学校や高校の英語の授業はどうだろうか。

私が学生だった頃の授業は、ほぼ使わないであろうフレーズを坦々と勉強させられていただけで、英語は単に上級学校へ行くための試験の対象でしかなかった。
従って、合格してしまえば、覚えた英単語やフレーズを復習したり、実践する機会もなかった。

今はどうかと思って、文部科学省の「新学習指導要領に対応した小学校外国語教育新教材について」の教材を見た限り、教師が生徒たちに英語を話す面白みを伝えられるか疑問に思ったのは私だけだろうか。

例えば、2017年(平成29年)12月8日に公表された6年生用教材のUnit 1を見ても、どう考えても実用性がない。
東京オリンピックなどのインバウンド需要云々を言うのであれば、初級編の会話の切り出しは、街中で何か探し物をしている外国人に対し、May I help you?(どうしましたか?何か手助けできることがありますか?)というフレーズだろう。

そうでなく、友人や恋人同士のシチュエーションを演じたければ、Where do you take a lunch?(どこでランチ食べる?)などという会話が最初に来るのではないだろうか。
そこで、○○が好きだとか、好きではない、あるいは、一緒に行かない?という会話で話が続けられるだろう。

文部科学省の指導要領にあるような無味乾燥な会話の練習が教科書に載るのは、おそらく、政策を立案する官僚のほとんどが、海外への個人旅行経験もなく、国内で外国人と会話をしたこともなく、学ぶべき文法とか単語とか、昔ながらの発想(前例)から脱却できないからではないか。

これだと、それこそ授業が終わったら忘却の彼方、内容がつまらないから、英語の授業を受けるのが苦痛になるという負のスパイラルが展開されることになるだろう。

「間違ったら怖い、恥ずかしい」が学習を阻害する

間違ったら怖い、あるいは恥ずかしいという気持ちが芽生えるのはいつごろだろうか。

日本の学校では、正解が複数あるものでさえ、教科書に書かれた模範回答を完璧に答えないと○が付かないという授業が行われがちだ。
特に、英語の場合、一つのことを言うのでも、何通りもの言い回し(英訳)があるにもかかわらず、そうした授業が行われると、次第に、模範解答以外は許さないといった雰囲気が作られていく。

それが高じると、瑣末な間違いに対してさえ、教師から叱責されることもあり、もはや、そうなると、自ら進んで手を上げて答えようという気にはならなくなる。
「怖い」「恥ずかしい」、どちらの気持ちが芽生えるにせよ、教師の質問に完璧に答えられる生徒以外は、授業に対して萎縮するか反抗するようになる。

こうして、子ども心に萎縮の気持ちや反抗心が芽生えれば、もはや英語を自発的に学ぼうと思うことはなくなるだろう。
まして、日本国内で生活している分には英語を使う機会などほとんどないからだ。

周囲に気兼ねする人は、どんなに勉強しても英語を話せない

英語に限らず、物事の上達のために必要なことは、インプット(学習)だけではなく、学んだことをアウトプット(実践)することだ。
例え、間違えても失敗しても、諦めずに続けることが重要だ。

ところが、周囲に気兼ねする人の特徴は、一言でいうと、「自分の意思を第三者に伝えるのに躊躇する人」である。
こういった人たちは、日本語でさえ、自分の意思を言葉にして言わないのだから、英単語や文法をいくら覚えても、英会話が上達する可能性はほぼゼロだろう。

人間を相手に話すことを練習しなければ、いくら教科書を見て、英単語や文法を覚えても、会話は上達しないからだ。

日本人が英語できない4つの理由【義務教育のせいも大きい】」で書かれている「(日本人は自分の)考えを持っていない」というのは、同調圧力が強い社会(学校)で生活し、処世術として、周囲に気を使い続けた挙句に、自分で考え、意見を言うことを放棄した結果だと私は思う。

私が20年ほど前に、慶應義塾外国語学校(現在の慶應外語)という英会話スクールに行った経験で言わせてもらえば、英語は常に、I want to ***.(私は○○したい)、I think ***, because ***. And how about you?(私は△△と思う。なぜならば××。で、あなたはどう思うの?)の世界だった。
自分の意見を言うときに、理由を述べないと、先生からはWhy(なぜ、そう思うか)と聞かれたものだ。

日本の学校の英語の授業で、こういった方法で会話をさせているだろうか。
教科書をなぞって音読し、答えが一つしかなく、それと違っていたらダメとかいう授業では、会話が上達することはないだろう。
それどころか、英語自体が嫌いになってしまうのではないだろうか。

なぜ日本人は英語が話せない? カリスマ英会話教師と対談してきた」で書かれている「(家庭や社会から)自分の意見をガンガン言わないように育てられる」というのは、まさに私が通った英会話スクールの授業の対極をいっている。

日本人が英会話ができるようになるためには、こういったところを見直した方がいいとは思うが、日本人サラリーマンが周囲に気兼ねして有給休暇が取れないのと同様に、周囲に気兼ねする人は、どんなに勉強しても英語を話せないと思う。
自分の意思表示を躊躇するという点では、どちらも全く変わらないからだ。

2018年12月10日付でエクスペディアが掲載した「世界19ヶ国 有給休暇・国際比較調査2018」では、有給休暇の取得に罪悪感を覚える(気兼ねする)人の割合が58%と、調査19ヶ国中で最多とあった。

私に言わせれば、これが変わらない限り、日本人の英語下手も変わらないと思うのだ。
日本語で自分の希望や意見を言えない人は、英語でそれを表現するときでも、相手に対する遠慮と躊躇と恐れが心の中に芽生えるからである。

日本の社会を包む空気を読めと言う自重の精神と、過度に他人に気を遣う(気兼ね)文化は、もしかすると学校教育の段階で醸成されているのかもしれない。
もし、そうであるとすると、こういった日本の病は英語教育のみならず、社会全体を覆う暗雲と言えるだろう。 

日本政府は国民が英語が堪能になることを望んでいない

HSBC Hong Kong Ocean Centre Branch

私が英語を学ぼうと思ったのは、海外個人旅行が年中行事となってからだ。
今なら、さしずめeBayを通して、海外へ輸出転売をしようと思うか、海外の金融機関に口座を開こうと思った時が動機になるだろうか。

英語に対する苦手意識がなければ、例え、堪能でなくとも、どちらも容易いことなのだが、日本人の多くは怖気づく方が先にくる。
果たして、それは日本社会を覆う気兼ね文化の究極の姿なのだろうか。

国費留学した国家公務員の転職の抑止力は法律だけ

2006年(平成18年)に召集された通常国会(第164回国会)で、国家公務員の留学費用の償還に関する法律が制定された。
そこには、留学を終えたときから5年以内に自己都合退職した場合には、国費留学費用を返還する義務を負うことが書かれている。

納税者の立場からすると当然に思える制度ができた背景は、国費で留学した若手官僚が、留学中や留学直後に給料が高い外資系金融機関に転職したり、起業、もしくは米国で働き始めることについて「税金の無駄遣いだ!」という批判が高まったためなのだが、裏を返せば、それだけ日本の国家公務員という職に魅力がなくなっていたのだ。

かなり古いコラムだが、2005年10月20日付のChikirinの日記に「税金の使い道」というものがある。
そこに国費留学した国家公務員がそのまま公務員として任期を全うするする場合と、民間に転職した場合との比較が書かれているのだが、気になるのはそこではなかった。

彼らが留学後に辞めてしまう理由のひとつは、企業側が留学生が学んできたことに期待しておらず、留学中の学びが帰国後の業務で活かせないからです。

極論すれば霞ヶ関も大企業も、この制度に期待しているのは“新卒採用を有利に進める”ことであって、彼等の学びを経営や組織運営に活かすことは最初から考えていない、と思える場合さえあります。

そんなことでは、留学して帰ってきた若者の多くが気持ち的に腐ってしまいます。「税金の無駄遣い」とは、国費で留学した若手公務員が転職してしまうことではなく、どうせ使う気もない知識や経験を得させるために国費で留学させること自体であったり、せっかくの学びを得て帰ってきた人材を、その能力や学びを活かせるポジションにつかせないことの方なのではないでしょうか。

2019年8月30日付で人事院は「国家公務員の留学費用の償還等に関する状況」というものを発表した。

2006年6月19日に国費留学費用の償還制度から施行されてから2019年3月31日までに、この制度の対象となった人は、国費留学した国家公務員の5.6%(286人/5,094人)、あえて留学費用を返還しても転職を決意した人が多いと見るか、法的抑止力が効いていると見るか、貴方はどう見るだろうか。

もっとも、これは帰国後5年以内に退職した人の割合なので、それ以降の退職者は数字にはカウントされない。
国家公務員や、民間企業も含め、海外留学を機に転職する人が多いということは、英語が堪能なら最初から日本の組織には見向きもしない可能性も高い。

城繁幸氏の著書「7割は課長にさえなれません」で書かれている「日本企業を敬遠するのは、なにも留学生だけではないことだ。さらにいえば、この流れは完全に新卒市場に波及している。」というのは厳然たる事実だろう。

2019年4月12日付のFNN Primeの記事「東京大学で“官僚離れ”が進行中!? “東大ブランド”のゆくえは…」には、こう書かれている。

高橋光太郎氏
そうですね。けっこうみんな、違うところに行っていると思います。ただ、給与が魅力的なのか、外資系に行く人が多いというのは聞きますね。僕の周りはエンジニアとか、それこそ今AIが流行っているので起業する方もいて、まちまちですね。

それでは困るというなら、仕事のあり方や組織運営、給与体系を変えればいいのだが、日本では国民に英語を話させないという方向に舵を切り続けた。
非常に残念なことだと思う。

日本人が英語ができると人も金も国外流出する

私が「日本政府は国民が英語が堪能になることを望んでいない」と真剣に思い始めたのは、私が早期リタイアを決断したきっかけとなった2012年5月の香港・マカオ旅行のときに持参した山田順氏の著書「資産フライト 『増税日本』から脱出する方法」を読んだときだった。

その中には2013年6月19日付の東洋経済の記事「英語プアの日本人は、ますます下流化する」で彼が書いていることと同じことが書かれていた。

日本という国はわざと国民に英語を理解させないようにしているとしか、私には思えない。

そして、時代は下る。
最近になって、私が読んだ○ーミン氏の「英語でIT人材は海外へ流出する。まるで交通インフラ整備で地方の過疎化が起きたように。」というコラムに、

噂話ですが、その友人によると、戦後の教育で英語の読み書きを重視して会話を教えなかったのは日本の人材を海外へ流出させないようにするためだったそうです。であれば、その政治家はとてつもなく優秀だったのでしょう。

と書かれていた。

このコラムを読んだ時、私はかなり衝撃を受けた記憶があるのだが、この話を裏付けるように、友人の一人が霞が関官僚の実話としてこう言ったことがある。

日本人が英語を話せないのは、人材が国外流出してもらっては困るからだ。英語の読み書きはできて欲しいが、コミュニケーションを図ってもらっては困る。
そのような教育を政府は実践してきた。

従って、枝葉末節な英語民間試験のことだけを取り上げて、教育の公平性云々を指摘しても意味のないことであり、グローバル社会を生き抜くために、英語力が必須の時代において、所得の低い家庭の子どもは、奨学金地獄に陥る前に、昭和時代の遺物である「いい大学→いい会社」というコースを捨て、別の道を進んだ方が幸せになれる可能性が高いだろう。

その一つの方法として、私は2年前に「可愛い子には京都でアルバイトをさせよ」と書いた。
参考までに、ご一読いただければ幸いである。

英語ができないと国益を損ねる

レッドカードを出す女性

私がこれを最初に感じたのは、2002年5月8日に起きた中国・藩陽の日本総領事館で起きた北朝鮮亡命者連行事件のときだ。
亡命者が手渡した英文の書類を領事館員が読めないとか言ったと伝えられたときから私はまさかという疑念を抱いていた。

そして、2005年12月20日付の「英語ができない外交官」というコラムを書いたときに、それは確信に変わった。

外交官と言えば語学のプロのはずなのに、そこに採用される人の英語力がそのレベルでは、日本は大きく国益を損ねるだろうと思った。
実際、2010年代に入って、国際社会で日本と歴史的認識で対立する中国や韓国の主張が取り入れられているのも、そういった事情が背景にあるのだろう。

国際会議で3S (Silence/沈黙、Sleep/居眠り、Smile/微笑)と称される日本の代表者たち、それがいかに国益を損ねる行為だったか知らないわけではあるまい。
国際会議で3Sに陥るのは、まさに英語が読めても、話せない(議論できない)典型ではあるまいか。

そして、当時のニューズウィーク誌のファリード・ザカリア編集長の「日本の外交官は中国と比較すると、特に45歳以下は実に大きな差がある。」というのは、もしかすると、英語が堪能な人が国家公務員の職に見向きもしなくなった結果なのかもしれない。

さらに時代は下り、つい最近読んだコラムで2019年10月8日付の「シラク元大統領の国葬に駐仏大使。日本が繰り返す弔問外交の失敗」というものがあった。

私は、小川和久氏が書いた弔問外交の場に首脳級を派遣せずに、9月30日のシラク元大統領の葬儀に木寺昌人駐仏大使、2005年4月8日のローマ法王ヨハネ・パウロ2世の葬儀に川口順子首相補佐官(当時)が参列したという記事を読んで、国会の会期中などという国内事情を優先させたか、外国語ができる人を選任するとこうなったのだなと感じた。

小川氏は、要人の葬儀に首脳級が出席しない理由を、取って付けたような言い訳と切り捨てたが、実態は私が書いたようなところだろう。
でも簡単な英語でもできれば話すきっかけにはなるだろうし、込み入った話は通訳を入れればいいと思うのは私だけなのだろうか。

最後は「格落ちした日本 – 前回の即位礼と比べて外国賓客が横並びで格下げ」というコラムだ。
ここでは、日本の経済力や国際的な影響力が落ちたからだと解説されているが、私は、弔問外交での失策というか無礼ぶりをお返しされたこともあるのではないかと思っている。

私もYouTubeで、日本人が世界から敬意を払われ、特に、第二次世界大戦前後のアジア諸国への功績に対してスポットライトに浴びているのを見て、涙することもある。
しかしながら、それは戦前の日本が気骨ある国であったからこそであり、今のように米国の顔色を窺い、隣国の脅しに右往左往するだけの国では、真の意味で諸外国から敬意を払われることがあるのだろうか。

最後に

私は、change.orgがキャンペーンをやっている「大学入学共通テストへの民間試験導入を止めて下さい!」というものに署名をした。

小泉内閣当時に実施された国立大学の行政法人化同様、英語教育における経済不平等化の拡大を招くと思ったからだ。
今では、経済的に恵まれた家庭の子供しかまともな大学生活を送れなくなったのと同様に、グルーバル時代を生き抜くための武器である英語教育を、富裕層の特権にすることには耐えられないからだ。

日本政府の教育政策は「国家百年の計は教育にあり」とは真逆のことをやっている。
英語は紛れもない国際語であり、今や英語を話すことは、インターネットにアクセスできるツール(パソコンやスマートフォン)を持つのと同様に重要なことだ。

私は、令和時代の日本において、英語の準公用語化を促進してもいいくらいだと思っている。

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