私が今読んでいる本に「人生を変えたければ『休活』をしよう!(大田正文著)」 という本がある。
これは私が今からちょうど2年前に書いた「自由時間の達人(自遊人)になれば熟年離婚は防げるか」というコラムで紹介した「働かないって、ワクワクしない?(アーニー・J・ゼリンスキー/Ernie J Zelinski著、三橋由希子訳)」とコンセプトが似ているところがある。
要は、自由時間をいかに充実させ、自分たちの人生を実りあるものにするか、という点で共通するものがあるからだ。ところが、日本のサラリーマン社会ではこういったことが困難になる大きな壁がそびえ立っている。
奇しくも4月8日付のフィナンシャルタイムズ(Financial Times)の記事「Japan needs a working hours overhaul」(日本語訳:Japan Business Press-日本は今こそ労働時間改革を 旧来の企業文化は、この国が直面する課題に不向き)でも痛烈に批判されている長時間労働を是とするサラリーマン社会の慣習だ。
3月2日に答申が出され、4月3日に閣議決定された労働基準法等の一部を改正する法律案要綱の中で「特定高度専門業務・成果型労働制(高度プロフェッショナル制度)の創設」が、労働時間、休日、深夜の割増賃金等の規定を適用除外とすることが盛り込まれていたこと(残業代ゼロ法案)に対して、将来的な要件緩和の懸念から猛反発が起きているのも現在の日本の労働環境が歪なことと無縁ではない。
なぜ日本の会社はTABI LABOで紹介されている建築用資材メーカーの未来工業のようになれないのだろうか。(創業以来、赤字なし!日本一休みの多い会社、未来工業がすごい「10のワケ」)
もともと著者の大田正文氏が、休日活用術(休活)を通じて人生を変えようということを提唱したのは、彼曰く、結婚後の休日の過ごし方が夫婦間であまりにも乖離していて、このままでは熟年離婚一直線という危機感から、会社の肩書抜きの個人で勝負できるような力を身につけるために活動を始めたのがきっかけであるという。
そこで、彼は「毎日、会社と家との往復で、将来に漠然とした不安を感じている人 、日々の業務が忙しくて、気がつけば時間に流されている人、いつも休日をだらだらと過ごしてしまい、気がつけば何も残らないまま休日が終わってしまう人、そして、会社の肩書抜きで、個人として勝負できる力を身につけたい人」に休活を通じて人生を変える価値を提供できると述べているが、現実には多くのサラリーマンはそうするだけの気力、人によっては時間も残されていないかもしれない。
ところで、そういった方たちは自分の老後の生活がいかに悲惨になるか考えたことがあるだろうか。
まず、大田氏の著書の一節にあった会社人間と呼ばれた退職世代のお馴染みのセリフからだ。
「私は会社員時代は取締役まで務めていたんだ。そのときは社内の人間にも大切にされたし、取引先の部長たちがひっきりなしに挨拶に来てたよ。でも定年退職した瞬間に、それまで相手が見ていたのは、私の取締役という肩書だったことを痛感したんだ。私は会社と仕事に成果を残してきたし、感謝もしている。でもね、会社を辞めて、友達と呼べる人が周りにほとんどいない寂しさを実感すると、ちょっとだけ、私の今までの人生は、これで良かったのかな、と思うんだ。」
かなり控えめな言い方だが、内心は相当に後悔しているのではないだろうか。
TABI LAVOで紹介されている「歳を取ってから気付いた・・・人生で失敗した『19のコト』」、日本人にも数多く当てはまるのではないだろうか。
かつては官公庁や大企業を定年退職すれば、退職金と公的年金だけで老後は安泰だった。
ところが、今の日本はそういう経済環境にはない。
私がちょうど1年前に書いた「公的(老齢)年金受給額試算でわかる厳しい老後の現実」を持ち出すまでもなく、退職金と公的年金だけで老後が悠々自適となる人は少数派だ。
それゆえ、マネー雑誌のみならず様々なメディアで「若い頃から投資を始めよう」という宣伝が行われているが、滅私奉公とばかりに残業続きのサラリーマンが投資を勉強して実践するだけの時間があるだろうか。
非常に残念なことだが、未だに昭和の色濃い日本のサラリーマン社会に順応しようとすればするほど、自分たち家族の生活は悲惨なことになるというのが現実である。
会社とは付かず離れずというのがこれからのサラリーマンの処世術、あるいは私のように徹底的にドライに割り切ってしまうことだろうか。
一方、マクロ経済に目を転じてみよう。
アベノミクス(第二次、第三次安倍内閣の経済政策)による円安、株高(2014年11月4日-ブルームバーグ:GPIFと黒田日銀はアベノミクスと投資家の味方、株高円安を演出)と中国人旅行者の爆買い(2014年11月23日-東洋経済:総額2200億円!中国人旅行者の”爆買い”)などが経済ニュースのトップを飾るので、あまり目立たないが、日本のサラリーマン世帯の消費は11ヶ月連続で減少している。(2015年3月27日-日経新聞:実質消費支出、2月は前年比2.9%減 減少幅は前月より縮小)
これはサラリーマンの実質賃金の伸びがないことと、可処分所得が減り続けていることが大きな要因だが、もう一つ、長時間労働を強いられるサラリーマンがお金を使う機会がない、ということも挙げられるだろう。
この、サラリーマンがお金を使う機会がないことに対するマクロ経済への影響については、議員立法である過労死等防止対策推進法に関与した愛知県第14区選出の自民党衆議院議員・今枝宗一郎氏が自身のブログで「長時間労働が家族も経済も壊す(2012年11月24日)」として、痛烈に批判している。
そして、私は大学卒業後に勤めた会社の同期の一人が言った言葉が忘れられない。
「オレもう金(残業代)いらないから使う時間(自由時間)が欲しいんだよ。今のままでいったら札束抱いて爺さんみたいに(過労で)死んじゃうよ。オレどうしたらいいんだよ。」
今、彼がどうしているかはわからない。
一つだけ言えるのは、あれから25年以上たった今でもこういう状態なら決して幸せとは言えないだろうということだ。
それに輪をかけて深刻なのが少子高齢化による労働力不足だ。
今では、この労働力不足を補うためにサービス業の現場などでは外国人労働者の争奪戦が繰り広げられている(2014年8月5日 J-Castニュース:人手不足の解消は「外国人労働者」で すでに全国で70万人突破、外食、コンビニなどが争奪戦)が、当の外国人たちはいつまで日本で働くことに魅力を感じてくれるのだろうか。
円安の影響で東南アジアからも観光客がたくさん来日しているということがクローズアップされているが、裏を返せば、彼らの国がそれだけ経済力がついたということであり、将来を見渡せば、言葉の通じにくい日本に出稼ぎに来なくても良くなること意味している。(2014年5月13日 エクスペディア:東南アジアからの観光客急増の裏側-査証緩和後のタイからの訪日外国人は年間でほぼ2倍!)
仮に将来も日本に働きに来てくれる外国人が現在のようにいたとしても、円安が進行することは、それだけ外貨換算した場合の収入が減る(本国の家族へ送金できる余力が減る)ことになり、彼らが日本で働く動機の大半が失われるだろう。
その上、「日本が世界一『貧しい』国である件について」の著者、谷本真由美氏は、「ニッポン人の働き方はこんなにおかしい」というコラムの中でこう述べている。
「日本で働いたことのある人の中で、『ブラック企業』が多いとされる飲食業や、製造業の現場などに従事した人は、日本では二度と働きたくない、という人が実は少なくないのです。日本人の働き方に感心する人もいることはいますが、常識を逸した労働時間、払った費用以上のサービスを要求する『お客様』、いじめにしか思えないシゴキ、無償労働や社内イベントの強制参加などに呆れているのです。」
また、新潮社Foresightで連載を続ける出井康博氏も、「『人手不足』と外国人(1)『介護士・看護師受け入れ』はなぜ失敗したのか」の中で、経済連携協定(EPA/Economic Partnership Agreement)に基づき来日したインドネシア人やフィリピン人の看護師や介護福祉士が、日本の国家試験に合格し、日本で就労できるにもかかわらず帰国するケースが多いと述べている。
「日本には遊びに行きたい。でも、働きたいとは思いません。」
谷本真由美氏の著書にも出井康博氏のコラムにも掲載されている外国人労働者のセリフは、将来の日本の姿を暗示しているような気がしてならない。
あるインドネシア人看護師が「日本人は時間を守りません。遅刻に対しては大変厳しいのに、仕事の終了の時間は守ったことがありません。」(『POSSE』vol.16-安里和晃インタビュー「EPAは介護・看護現場を変えたか」より)と述べたというが、これに対してインターネット上では「それなら日本に来るな。それでは日本の社会に馴染めない。」などという反応があったというが、どこまでドメスティック思考で傲慢な人たちなのだろうと思った。
今や日本の消費者の中には高度なサービスを安価に得られるのが当然と思っている、言わばブラック消費者と呼べる人が少なくないため、それが従業員の低賃金長時間労働を生み出す負のスパイラルを作り上げている。
そんなブラックな現場に日本人労働者は反旗を翻し始めており、それゆえの慢性的な人手不足の業界はことさら拍車がかかっている。
これで、頼みの綱の外国人労働者にも逃げられたら、いったい日本の将来はどうなることであろうか。
今のようにコンビニへ行けば24時間営業している、宅配便を時間指定で配達してくれるなどという時代は終わりを告げるかもしれない。
まして、団塊の世代が後期高齢者となる2020年代、大介護時代などと言われるときに、その担い手はいるのだろうか。
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