先輩の訃報に接す

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2000年4月8日の花見にて

かつて「やきとりの会」と呼ばれた呑ん兵衛の集まりで、7~8年ほど前までは毎年恒例だった花見(2005年4月10日-花見の季節がやってきた)のときにご一緒させていただいたSさんという先輩(2000年4月8日の花見のときの写真=右から2人目)が今月3日に亡くなられた。

ここ数年は飲み会などでご一緒したことがなかったので、どうされているかと思っていたが、享年51歳、まだまだ人生これからというときなので、さぞかし無念なことだろう。
今は謹んで彼のご冥福を祈りたいと思う。

思えば、私の周囲で現役のまま亡くなった方の訃報に接したのは、2003年9月に同期の友人が亡くなったとき(2003年9月27日-友人の突然死)と、ワールドインベスターズTVへの志なかばで倒れたソナタさん(2009年10月12日-ネット仲間の冠婚葬祭)に次いで三回目だ。

今回は人づてに聞いたところ闘病生活の末ということだったらしいが、自分とそれほど変わらない世代の人の死はやはりショックだ。
今は自分の親世代の訃報は意識しても、まさか自分たちの世代の人間が、とは思わないだろう。

それでも60歳でようやくサラリーマン生活を終え、これから第二の人生を楽しもうというときに亡くなられる方は少なくない。

奇しくも、今読んでいる「狂った世間をおもしろく生きる」の一節に、豊かな時間の使い方のヒントというのがあり、「若いときには若いときの楽しみがあり、老後には老後の楽しみがあるんです。若いときの楽しみを我慢して、老後に楽しみをとっておくということほど、愚かな発想はありません。(中略)過ぎ去った時間はどんなにしても返ってこないと気づいても、もう手遅れなんです。」とある。

身近な人の訃報に接したとき、私はこういうことを強く意識する。
私が50代前半で早期リタイアを目指す、ということはそういう意味も大いにあるのだ。
あなたはいかがだろうか。

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