放置国家の無差別殺人者が大手を振って街を歩く

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耳を塞ぐ女性

2009年(平成21年)5月21日から施行される裁判員制度について、私は過去4回にわたって懸念を表明してきた。


そして、今回は裁判員制度が骨抜きにされかねないのではないかという懸念を表明したい。
ご存知の方も多いだろうが、裁判員が関与する裁判は、殺人罪、強盗致死傷罪、現住建造物等放火罪、身代金目的誘拐罪、危険運転致死罪などが罪状とされる事件だ。

最近日本では無差別殺人(テロ)というものが多発している。
これに関してメディアは、加害者たちが格差社会の底辺で抑圧された云々ということを書き、家庭環境や社会生活における不遇を取り上げ、対する市井のブロガーたちはマスコミが世論をミスリードしようとしていると憤る。

今は、市井のブロガーはネット上で憤ることしかできないが、来年以降は裁判員に選ばれれば、こうした事件に直接関わる可能性がある。
そもそもこの制度を導入した理由が、裁判が身近で分かりやすいものにし、司法に対する国民の信頼の向上につながることを期待するということだが、果たしてそうなるのだろうか。

私の手元に日垣隆氏の「そして殺人者は野に放たれる」という本がある。

その中で彼は、刑法第39条(心神喪失及び心神耗弱)の規定によって精神鑑定が乱発され、その鑑定結果を検察と裁判所は量刑判断に対する言い逃れの担保とし、自らの目をもって被疑者の責任能力の判断をしなくなって(思考停止して)いる、と述べている。

また被疑者に対して弁護士が入れ知恵して司法を誘導し、不起訴処分や刑の軽減を勝ち取ることも多いと指摘、この規定は即刻削除すべき条項であると主張している。

仮に、精神鑑定や刑法第39条を是とするならば、刑法第39条の次に以下の条文を付加すべきとも言う。

刑法第39条の2 (1974年5月29日法制審議会総会で決定した刑法改正草案の一部)

  1.  故意に、みずから精神の障害を招いて罪となるべき事実を生ぜしめた者には、前条の規定を適用しない。
  2.  過失により、みずから精神の障害を招いて罪となるべき事実を生ぜしめた者についても、前項と同じである。

つまり、覚せい剤のような薬物摂取や過度の飲酒によって引き起こした犯罪は精神錯乱を理由として免責しない、ということだ。
当たり前過ぎることだが、日本ではその常識が通用しないようだ。

そして、日垣氏曰く、この改正法案は1974年(昭和49年)5月29日に法制審議会総会で正式決定を見ながら、歴代内閣と法務当局もこれを忘却したかのように振舞っていると手厳しい。

その中で2001年6月の宅間守による大阪池田小児童殺傷事件のとき、当時の小泉首相は「重大な罪を犯した精神障害者の処遇」に関して、刑法改正の検討を指示(参考:法務省・厚生労働省合同検討会)したが、結果は「心神喪失等の状態で重大な他害行為を行った者の医療及び観察等に関する法律」が成立したものの、法律の名前通り、あくまで彼らには医療処置を受けさせるのみで、実質的には薬物乱用、過度の飲酒によるエセ精神障害者であっても刑に服さなくて済む余地が残されたままになっているのが実態と言えそうだ。

役所言葉で「慎重に」というのが「ほぼどうしようもないが、(官邸や大臣からの頼みなので)断りきれないときに使い、実際には何も行われないということ」といった故宮本政於氏の言うことは正しかったのだ。

日垣氏も不勉強な森山法相(当時)を自在に操る被害者無視の法務官僚に刑法改正の声は瞬く間に掻き消されたと論じている。

これで、無差別殺人を行った者が、なぜ警察にイの一番に「むしゃくしゃしていた、酔っていてよく覚えていない」などと一見して不可解なふざけた理由を言うかおわかりだろう。
いかにも動機がわからない、正気でない風を装えば、うまくいけば起訴されずに済むからだ。

仮に公判に付されたとしても、こうした犯罪者に対する典型的無罪の判決理由である

「被告人は犯行当時、錯乱の状況にあり、自己のおかれた状況を十分に把握できないまま、衝動的に犯行に及んだものとしか言えない。このことからすれば、被告人は自己の行為の是非善悪を弁(わきま)え、それに従って行動する能力を完全に欠如していた可能性が高く、少なくとも合理的な疑いを否定することができない。以上のことから刑法39条1項によって罪とはならない。」

を勝ち取ることができると考えているからだ。

事実、平成19年版の犯罪白書の被疑事件の受理・処理の状況によれば、平成18年に検察庁における凶悪事件の不起訴件数は、殺人が1,347件のうち560件(約40%)、強盗が4,208件のうち621件(約15%)、傷害が32,010件にうち9,791件(約30%)、暴行が12,477件にうち6,175件(約50%)と驚くべき高率だ。

この中には警察が送検してきたものの証拠不十分と判断されたものや、情状酌量の余地ありというのもあるだろう。
しかし、こと殺人に関しては介護疲れからやむを得ずといった公判で涙を誘うような(執行猶予が付く)ケースであっても起訴はされるのだ。

この40%という高率は、証拠不十分という理由を別にすれば、精神障害が少しでも疑われる被疑者を公判に付した結果、刑法第39条の適用による無罪という判決(世界に誇る!?有罪率の低下)を恐れる検察の姿勢の表れと言えよう。

これでは、無差別殺人者にとっては司法ゲームを楽しんでいるだけだと言っても過言でない。
少なくとも精神障害者を装えば、死刑にはならない、不起訴なら完封勝利、裁判で無罪なら僅差勝ち、実刑が付けば負け、という単なる司法ゲームだ。

そう、私に言わせれば最近多発している無差別殺人は日本的な一種の殺人ゲームの結果であることがほとんどだ。
被害者や遺族、安全な生活を願う良民からすればたまったものではない。

日垣氏は言う。「何人も、故意に基づく凶悪犯罪に対して、責任と刑罰を免れるべきではない。傷害や死亡事件が明らかに病のみを原因とする過失であるならば、まさに過失犯(刑法第209条、第210条)で裁けばよく、裁判に耐えられないほど重篤な病に雁患している被告に限って(英国では年に4、5件。日本でもせいぜい8、9件程度であろう)現行通り、強制入院を命じれば事足りる。」

さて、先に述べたように裁判員制度が施行され、犯罪被疑者が起訴されれば、それらの事件に国民が裁判員として関わることもできる。
今までなら凶悪犯罪者に精神障害者のフリをさせ、「刑法第39条」による無罪を金科玉条のように叫んでいた人権派弁護士主導の裁判に一石を投じることもできよう。

理屈ではそうだ。
しかし、産経新聞「正論」-日本が司法界に弑(しい)される日に書かれている高崎経済大学助教授の八木秀次氏の言葉が妙に現実味を帯びる。
もしかすると、今までよりも殺人を犯したエセ障害者が大手を振って街を歩くことになるかもしれないという警鐘だ。

仕事や学業、育児・介護で忙しい人は、裁判員の辞退理由に該当するから、いわゆる「普通の人」は辞退することになる。

では実際どのような人たちが裁判員になるのか。考えられるところ、暇な人、人がよくて断れないいわゆる「人のいい人」、社会的な活動に熱心な人々ということになるが、最後の分類の中には当然のこととして、左翼市民運動のプロやセミプロといういわゆる「プロ市民」や創価学会などの巨大宗教団体の信者が含まれることになろう。

ここに裁判員制度の導入に日弁連や左翼市民団体、巨大教団が賛成する最大の理由があるのだが、つまり裁判員制度は「普通の人たち」の感覚を反映させると言いながら、実のところ、「特殊な人たち」の意見を裁判に反映させる仕組みなのである。

それに不起訴とされる被疑者の増大が危ぶまれる。
不起訴になった事件には(検察審査会が起訴の正否を審査する権限があるが)裁判員は関与しないからだ。

今でさえ、殺人事件の被疑者のうち4割が不起訴なのだ。
暴行事件においては約半分、初犯や軽微な事件で示談が成立するケースも多いだろうが、笑ってしまうのは暴行事件で起訴されても略式命令、つまり罰金刑がほとんどだ。

司法関係者が人員が不足しているという声もあるが、これではまさに法治国家でなく、放置国家ではないか。
病院や学校、駅で、相手に罵声を浴びせるだけでなく、時には殴打事件を繰り返すモンスター(確信的犯罪者)たち、彼らもまた放置国家の恩恵を十分に受けていると言えようか。

コメント

  1. ヨハン より:

    かつて一番良い国だった日本、今は変な国になりつつある様で!私が住む国、銃社会では変なゲームは命を縮めるだけ!ゲームやアニメ好きなオタク天国日本、平和ボケのつけなんでしょうか・・・司法も立法も行政も国家をリードする難しさはどこでも同じですね。

  2. カルロス より:

    ヨハンさん、mixiからようこそ
    >かつて一番良い国だった日本、今は変な国になりつつある様で!
    あとは個々人の良心が残るのみです。
    それがなくなれば、ユハンさんが住んでいる国よりひどくなると思います。

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