去る15日、タンパベイ・デビルレイズ(Tampa Bay Devil Rays)の野茂がとうとう日米通算200勝(200th career win – combined between Japan and the Major Leagues)を記録した。
2003年4月20日、野茂が大リーグ通算100勝をマーク(記事)してから約2年、まさにパイオニアに相応しい金字塔をまた1つ打ち立てた。
実のところ、私は大リーグ所属の日本人選手の中で野茂が活躍するのが一番嬉しいのだ。(2003年4月2日「今日の一言」)
野茂が大リーグへ行ったときは、イチローや松井秀喜のようにFAやポスティングシステムといった正規の移籍ルートがなく、すんなりと挑戦できたわけではなかった。
彼は1994年のオフの契約交渉にて「複数年契約」「代理人制度」を要求し、近鉄との交渉が決裂、彼は退団を決意するも、当時はそういったルールが確立しておらず、なかば近鉄から追い出されるように任意引退選手となってメジャーへ挑戦することになったのだ。
当時としては、選手が球団に楯突くことなどご法度。
(昨年の巨人の渡辺恒雄オーナーの選手会会長の古田に対する「たかが選手が」発言はその真骨頂だ)
マスコミなどの野茂へのバッシングは壮絶なもので、まるで不祥事を起こした人間のように罵しられた。
野球解説者の評価も一様に良くなく「無謀」な挑戦という声がほとんどだった。
今の日本球界の凋落はこの騒動のときから始まったという人もいるくらいで、今では日本国内でくすぶっている「お山の大将がはびこる」スポーツは、プロ野球、男子ゴルフ、大相撲を始めとしてファン離れが深刻化している。
その野茂が逆境に打ち勝ち、ロサンゼルス・ドジャース(Los Angeles Dodgers)に入団してトルネード投法で米大リーグに旋風を起こしたのは1995年。
「野茂マニア」という言葉ができ、日本選手で初めてオールスター戦に選ばれ、先発登板「労使対立の末のストライキでファン離れが目立った大リーグを救った」と評価された。
私は今、「世界が称賛!!伝説のニッポン人」という本を読んでいる。
海外など遠い夢だった過去において、世界で活躍した誇れる先人たちの偉大なる功績のガイドラインを書いたものだ。
例えば、ナチスからユダヤ人を救った杉原千畝、樋口李一郎、台湾で活躍した後藤新平や八田興一、インドでグリーンファザーと呼ばれた杉山龍丸などの物語だ。
こういった意味では、アメリカの大リーグ史の1ページを彼が飾ってもおかしくないだろう。
要するに、日本人メジャーリーガーの先駆となり、凋落の危機にあった大リーグ人気を回復させた功績は後世の人からきっと評価を受けるに違いないからだ。
おめでとう野茂投手、私はあなたの一ファンとして最大限の敬意とともにお祝いを述べたい。
これからも頑張って勝ち続けて欲しい。
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