忘れられた餘部事故

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鳥取駅

今日の朝日新聞夕刊の2面、「論説委員室から」というコーナーで以下のような記事が載っていた。

JR山陰線の餘部鉄橋は、兵庫県の日本海岸沿いに架かる。高さ41メートル。
1986年12月28日、強風にあおられた回送列車がこの鉄橋から転落し、車掌と、下のカニ加工場で働いていた主婦ら計6人が死亡した。

久々に鉄橋の下に立った。海からの風が強い。慰霊の観音像の台座に犠牲者の名が刻まれ、キクの花が供えてあった。鉄橋の下に住む岡本倫明さん(71)が毎朝、花の水替えを続けてきた。仕事納めだと出かけていった妻(当時46)を亡くした。

事故当日、私は横殴りの雪の中を地元の豊岡支局から車で現場入りした。途中の道路は倒木や落石だらけ。地元の漁師は「戦後2番目に強い風だ」と言っていた。

風速25メートル以上で福知山鉄道管理局の指令が列車を止める決まりだった。橋上の風速計は故障し、近くの計器が風速33メートルを示していた。だが、指令に携わる3人の職員は列車を止めなかった。彼らは有罪判決を受けたが、上層部の責任は問われなかった。

「停止措置をとっていれば。ただそれだけのことなのに・・・」。岡本さんは18年余りたった今でも無念さを口にする。

岡本さんから手渡された餘部事故の記録集の中に、事故の背景について労組員が書いた興味深い一文を見つけた。「1分でも遅延させると責任を追及され、新会社への選別の脅しに使われた」。事故は国鉄がJRに変わる3ヶ月前に起きた。山陰線は福知山線に接続し、尼崎の脱線現場へとつながる。兵庫県の北と南で起きた事故の様相はそっくりだ。(中村正憲)

尼崎列車事故からそろそろ1ヶ月が経とうとしているが、歴史は繰り返すというか、18年前の事故から何も学習していないというか、何とも言えない思いだけが胸を締め付ける。

「上層部の責任は問われなかった」
日本という国はいつからこんなふうになったのだろうか。

戦前の日本軍や外務省も同じ体質だったと言われる。
要するに18年前でなくて、80年くらい前から何も変わっていないのだ。

しかし、一部の識者は、よき日本の伝統であった崇高な志と潔さを持った人たちが、高度成長の礎を築いたのも事実で、彼らは、概ね第二次オイルショックの時までに、自らの限界を知って身を引き後進に道を譲ったともいう。

要するに、その後にタナボタで居座った無能な人間が、醜態を晒し、さらに無能な人間を呼び、バブル崩壊後の「失われた10年」と呼ばれる日本経済の退潮を招いたということだ。(知性も責任感も失った白髪の貴族たち

今の日本で改革派と名乗る人間が、実は「失われた栄光」の一端を担った戦犯だということはよくあることなのだろう。
要するに、他人にだけ責任を押し付けて、自分はあたかも迷惑を被ったかのように振舞う人間だ。

そういう奴はどこかで馬脚を現す。
そうしたときに彼らの既得権を剥奪し、その地位から追放できるかどうかが社会の健全さを表すバロメーターでもある。

今の日本は、明らかにそれがない。
今回の事故でニューヨークタイムスには「尼崎脱線事故は時間への脅迫観念が原因(日本語訳付き)」というコラムが載っていた。

その中で「日本の人たちもこの事故に責任がある。これは、自主競争社会なのだ。柔軟性がない。だから高見運転士は1分半の遅れさえ取り戻そうとしたのだ。」というものがある。

過ぎたるは及ばざるが如し。
先人の教えには含蓄と教訓があるのだ。

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